No.122 「あの想い再び」

三十路を歩み始めてすぐ、教師になるという夢を抱いた。
そして、大学院進学を決め、当時の職場であった亜細亜大学へ辞職願を出した。
大学からは、研修として留学を認めるので、身分を残しておくようにと有難いお話を頂いたが、教師になるという目標が鮮明であったため、丁寧にお断りした。

夢は叶った。充実した大学教員生活が始まり、気がつけば12年という時が過ぎていた。
私は、新たな夢を抱いた。より多くの人々にコミュニケーションの醍醐味を伝える伝道師になると決意し、勤め先の千葉大学へ辞職願を出した。
この厳しい時代に教員として続ける方が良いという多くのアドバイスを頂いたが、一大学教員としてではなく、「西田弘次」個人としてどこまで世の中のお役に立てるか勝負したいと思った。

17年前、亜細亜大学を退職するとき、己の運命の強さと幸運に心から感謝した。

両親が健康でいてくれること、私の決断を快く応援してくれること、それらが当たり前でないことを、当時の私は痛いほどわかっていた。
学生指導の立場にいると、親が病気になったり、仕事が立ちいかなくなったり、不幸にして急きょ他界するといった運命に遭遇する学生たちと、常に接してきた。
また、親の理不尽な反対や家庭の事情などで、自分の夢をなくなくあきらめざるを得ない学生も少なからずいた。

そんなとき、自分が30歳まで大事なく、常に自分の夢を追いかけてこられたのは、何よりこの親あってのことなのだと、感謝の気持ちで一杯だった。

そしてもう一人、感謝をしてもしつくせない人物がいる。
それは、当時付き合っていた女性であり、現在の妻である。
その頃から、西田弘次という人間を一番知る存在だった。
こうと決めたら突き進む性格を、彼女は大きな愛情で包み込んでくれた。
私の応援団長だった。

今、またしても自分の新たな夢を追いかけるという道を選択した。

そこには、17年前と変わらぬ両親と妻の存在があった。
70代後半となった両親は、年はとったものの元気でいてくれた。
今回の決断は、もろ手を挙げての賛成とはいかなかったが、黙って見守ってくれた。
妻は、「やると決めたらやる人だから」と、変わらぬ大きな愛情をもって、さらりと私の決断を受け止めてくれた。

17年前、この両親の下に生まれてきた運命と今の妻に出会えた巡り合わせに、
何と稀有で有難きことかと心の底から感謝した。

そして今、その想いが再び私の心に湧き起こっているのは、言うまでもない。

これからも両親と妻に常に感謝しつつ、自分の道を歩み続ける。 合掌

2009年12月
#122 あの想い再び
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