No.57 「親孝行 ~その1~」

私の父は、昭和7年4月、台湾の台北市で生まれている。台湾が日本の植民地支配下にあった時代だ。二人とも教師であった祖父母は、台湾での教育に想いを馳せ、生まれ育った九州・熊本の地を後にし、海を渡った。
しかし、祖父母がその想いを成し遂げることを、神様は許してはくださらなかった。

祖父は、父が1歳のとき不治の病にかかってしまう。台湾に移り住んでから5年目のことだ。家族の献身的看病の甲斐もなく、父が2歳になった昭和9年の6月9日、祖父は帰らぬ人となってしまう。

祖父の亡骸と共に熊本に帰郷し、女手一つで父を育てる状況に陥った祖母。父を立派な人間に育て上げることが、先に逝った祖父へ対する責任と、悲しみを乗り越えて力強く生きぬく決心をする。

しかし、父が3歳になったばかりのときに、今度は祖母が白血病を患い、入院を余儀なくされてしまう。そして、昭和12年3月23日、祖父を追う様に帰らぬ人となってしまう。

祖母の他界後、父は祖母の姉に引き取られた。祖父母の治療に莫大な費用がかかったため、父を育て上げる資産は残ってはいなかったようだ。
また、引き取ってくれた伯母も、その数年前に夫を病死で亡くしていた。伯母は、残された自分の娘と父を、女手一つで育て上げたのだ。父にとっては母、私にとっては祖母同然の存在である。

家の仏壇に、凛とした好青年の男性と、着物に身を包んだ若い女性が飾ってあるのを不思議に感じるようになったある日、父は初めて自分の生い立ちについて話をしてくれた。丁度、「みなしごハッチ」というテレビ漫画に夢中になっている頃だった。
「お父さんはハッチと同じなんだ」そう思った。
親孝行の原点となった。

それから年月が経ち、小学校1年生になったある日のことだ。父が会社から昇格を受けたようで、我が家ではご馳走が振舞われた。夕食後、父は嬉しそうに伯母に報告の電話を入れていた。
その数分後、父の異変に家族皆が驚いた。当時、怖くておっかなかった父が、声を上げて泣き始めたのだ。

「慎ちゃん(父の名前は慎一)ごめんね。おばちゃんが大学にいかせてあげられんかったけん出世の遅なってね。お父さんとお母さんには、ほんのこて申し訳なか」
伯母は勉強好きだった父に、十分な教育を与えて上げられなかったことに対し、自分を責め続けていたのだ。
父は、昇格の喜びを誰よりも一緒に喜んでくれると思っていたに違いない。だが、伯母の思いも掛けない言葉がそこにはあった。

「なんば言よっとですか。おばちゃんがおって下さったけん今の自分があるとやなかですか。」
父は、声にならない声で叫んでいた。

生まれて初めて見る父の涙。衝撃的だった。

そのとき、私の記憶の中でハッチがフラッシュバックした。

「ハッチを両親に会わせるんだ」
「いつか、僕がお父さんを台湾に連れて行くんだ」

そう心に誓った。

2004年5月
#057 親孝行 ~その1~
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